Kamejiro Senaga and the
     People's History Museum.











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瀬長 亀次郎

1907年(明治40年)6月10日〜
2001年(平成13年)10月5日


 1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に生まれる。医学を志し、沖縄県立二中(現、沖縄県立那覇高等学校)に入学。同中4年に中退し、東京・順天中学(現、順天中学校・高等学校)に編入する。そして1927年(20歳)に、旧制第七高等学校(現、鹿児島大学)へ進学し、医学の道を志しながら、社会主義を勉強していく。翌1928年(21歳)に、社会主義運動に加わったことを理由に七高から放校処分を下される。2年間の兵役を務めた後、1932年(25歳)に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。各地の刑務所をたらい回しにされ、最終的に沖縄刑務所に移される。その後は「紅房」の蒔絵工、「沖縄朝日新聞」記者を経て、1938年(31歳)に召集されて砲兵として中国へ出征する。

 復員後の1940年(33歳)、「毎日新聞」沖縄支局記者となる。1945年(38歳)に避難先の沖縄本島北部で沖縄戦敗戦を迎え、収容所の自治組織である田井等市の助役を務める。翌1946年(39歳)「うるま新報(現、琉球新報)」社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営する傍らで1949年(42歳)に沖縄人民党書記長となり、1950年(43歳)に、沖縄群島知事選挙に出馬するが、準備不足もあり当選者の1割にも満たない得票数で落選。しかし、1952年(45歳)の第1回立法院議員総選挙では最高得票数でトップ当選を果たす。この選挙後の同年4月1日に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。

 1954年10月(47歳)、米軍は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕。たった1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけられ、懲役2年の実刑判決を言い渡され、再び投獄された(沖縄人民党事件)。1956年4月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬する。ヘリコプターから瀬長を冒涜するビラ(当館に写真あり)がまかれるなど米軍や対立候補から選挙妨害を受けるも、まったく保護されないという無法選挙を戦うことを余儀なくされたものの、大方の予想を覆し当選を果たす。だが占領軍出資の琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置に遭い、市政運営の危機に見舞われる。しかし、市民は自主的な納税によって瀬長を助けようとし、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後は86%にものぼり、最高で97%にもなった。そのおかげで自主財源での市政運営できるようになり危機を脱する。これに対し占領軍と沖縄自民党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。しびれを切らした占領軍は1957年(50歳)、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)、1954年の投獄を理由に、瀬長を追放し被選挙権を剥奪した。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米軍との攻防は、瀬長に対する沖縄県民の絶大な支持を呼んだ。

 1967年12月(60歳)に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌1968年(61歳)の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年(63歳)に、72年の沖縄返還に先立って行われた戦後沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に2位当選を果たす。以降7期連続当選を果たした。日本共産党に所属し、共産党副委員長などを歴任。当時の佐藤首相に対して、復帰後も沖縄の人々の土地である基地が返還されないことを厳しく批判するなど沖縄民衆のために闘い続けた。1990年(83歳)、衆議院議員を辞し、政治活動を引退する。2001年10月5日、肺炎により死去。享年94。

 ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。
 1998年には、映画「カメジロー 沖縄の青春」(監督、橘祐典[Wikipedia]。主演、津嘉山正種[Wiki])が制作された。また、2017年には、TBSのドキュメンタリー映画として、「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」(監督、佐古忠彦[Wiki])、2019年には続編として、「米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈生涯」(監督、佐古忠彦)が制作された。

 2013年3月、瀬長亀次郎の生涯と戦前戦後沖縄の苦難の歴史、共に闘った民衆の歴史を後世に伝えることを目的として、当館(不屈館=瀬長亀次郎と民衆資料=)が那覇市に開館。施設名は占領軍の弾圧を受けながらも闘い続けた瀬長が、生前好んで揮毫した“不屈”にちなむ。なお、瀬長はこの“不屈”という言葉について、沖縄の民衆が不屈であったのだと述べている。






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